2011年3月11日昼過ぎ、青空が曇り始めるなか、福島に暮らす人たちは毎日の営みを続けていた。
年度の切り替わりであるこの時期、卒業式も間近に控え、どこか華やいだ雰囲気ではあったが、いつもと変わりない日になりそうだった。14時46分、大地が揺れた。地震はめずらしいことではない。日本人はしっかりと備えをしている。しかし、すぐに揺れは、経験したことのない大きさとなり、人々の暮らしを大混乱に陥れた。すさまじい地震によって、家具や調度品は床に叩きつけられ、交通は遮断され、そして、電気、水道が止まった。夜になり、多くの住民は、水も電気もなく、つまり、照明も暖房も電話もテレビもないなか、激しい余震に揺さぶられ続けた。
情報を手に入れる手段が限られていたため、福島県の多くの人たちは、状況の全体像がわからないままでいた。
沿岸部は津波に襲われ、暮らしが跡形なくすべて押し流され 、福島第一原発の非常用の原子炉冷却装置も水に沈んだのだ。のちに、人びとは、3基の原子炉が損傷し、深刻な放射能汚染がもたらされたことを知ることとなる。
2015年現在、この4年前の自然と科学技術の同時多発災害の傷跡は、いまだ癒えていない。海岸線に残る津波の恐ろしさ、立ち入り禁止区域の荒涼とした様子は、今もなおはっきりと目に焼き付いている。
そこには、避難した人たちの暮らしの痕跡、家畜、それぞれの持ちもの、道路…。すべてがこの世のものとは思われない、背筋が凍るような空気だった。しかし、立ち入り禁止区域の外では、一見、ほとんど変わらぬ日常生活が営まれているように見える。ところどころで、モニタリングポストが空間線量を測定し、リアルタイムで1時間当たりのマイクロシーベルトの値を表示している。除染作業員が表面土壌を取り除き、袋詰めし、運び出されるまでの間仮置き場に集めている…。これは、これまで通りの日常なのだろうか?いや、違う。
まだまだ、問題は山積みになっている。何とか自分たちの生活を取り戻そうと戦い続けて来た4年を超える年月の精神的疲労。
まだ避難先から戻れない人たち、自分の家に戻りたくても戻れず、仮設住宅や仮住まいで生活を続ける人達、政府からの支援に頼らざるを得ない人達の困難は消えていない。
津波によって、一瞬にして1万6千人の命が奪われ、5年近く経った今でも福島第一原子力発電所からの放射性降下物が健康に被害を及ぼすという懸念が、人々の日常生活への復帰の足かせとなっている。
チェルノブイリ事故から約30年後の福島の悲劇的な事故が、私たちにはっきりと教えているのは、放射線防護に携わる人達はあらゆる面から放射線事故を考えていかなければならない、ということである。なぜならば、人生は健康のためだけにあるのではないからだ。
このパラダイム・シフトは、4年間にわたる実り多い放射線防護の専門家と自分たちの生活を取り戻そうとする福島の住民との間で続けられてきた交流、とりわけ“福島ダイアログ・セミナー”から得られた経験のなによりも重要なことである。
1.進むべき方向を求めてさまよう人々
2011年3月11日から16日までの間に、福島県民は巨大地震、壊滅的な被害をもたらした津波と想定外の3基の原子炉のメルトダウンを経験した。全く予測していなかったこの状況に人々は翻弄され、深い心の傷を負うこととなった。
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2.暮らしの主導権を取り戻すための指標を求めて
誰にとっても、放射能汚染による被曝は心配の種であったが、多くの人たちは、親戚や隣人とさえ、それについて敢えて語ろうとしなかった。放射能への知識もまったくなく、対処の方法も知らない人たちが、いったい何を語ることができたというのだろう?
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3.汚染された地域に住む:新しい福島の生活を切り開く
放射性降下物を受けた地で暮らすことは、人生に見切りをつけることではないし、かといって、事故前に戻ろうと事故がなかったことにして暮らすことでもない。 それは、自分の日常生活の主導権を取り戻すのを目指し、落ち着いた決定を共有するための新しい羅針盤を見つけることを意味する。
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4.再び未来を考える
福島の人たちにとって、未来はどのようなものだろうか。2011年3月より前の暮らしに戻ることはないだろう。今後、何十年にも亘って復興に取り組まなければならないほど、広大な沿岸地域が津波に流され、そして、場所によっては、同時に放射能による影響を受けたのだ。
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フォーカス
チェルノブイリの教訓: ベラルーシとノルウェーの経験のフィードバック
伊達: 率先して行動するリーダーたち
末続: 運命を自分の手で切り拓く
南相馬: 引き裂かれた街の傷